SB3-27-14~3-27-20
どんどんすすめます。
SB3-27-14
bhūta-sūkṣmendriya-mano- buddhy-ādiṣv iha nidrayā līneṣv asati yas tatra vinidro nirahaṅkriyaḥ
翻訳
デイヴォーティは5つの物質的要素、物質的快楽の目的、物質的な感覚、物質的な心と知性に融合しているように見えますが、
彼は目覚めており、偽の自我から解放されていると理解されます。
解説
バクティ・ラサームリタ・シンドゥーのルーパ・ゴースワミによる、この身体でさえ人を解放する方法についての説明は、この節でさらに詳しく説明されています。最高人格主神との関係で自分の立場を認識しているサッチャ・ドリクになった生き物は、明らかに、5つの物質要素、5つの物質感覚オブジェクト、10の感覚、そして心と知性に統合されたままかもしれませんが、それでも彼は目覚めていて、偽の自我の反応から解放されていると考えられています。ここで融合という単語は非常に重要です。 マーヤヴァーディの哲学者たちは、ブラフマンの非人格的な光輝に溶け込むことを勧めています。それが最終的な目標、つまり目的地です。その融合についてもここで説明します。しかし、融合にもかかわらず、彼の個性を保つことができます。ジーヴァ・ゴースワミの例では、緑の木に入る緑の鳥が緑の色に溶け込んでいるように見えますが、実際にはその鳥の個性は失われていません。同様に、物質的性質または精神的性質のいずれかに融合した生き物は、彼の個性を放棄しません。
本当の個性とは、自分を至高主の永遠の召使であると理解することです。
この知識は、主チャイタンニャの口から宣べ伝えられました。
彼はサナータナ・ゴースワミの調査の結果、全ての生命体がクリシュナの永遠の召使であるとはっきりと述べました。クリシュナはまた、バガヴァッドギーターにおいて、生命体が永遠に彼の一部であることを確認します。この一部分は全体を提供するためのものです。これが個性です。この物質的な存在でさえ、生命体が明らかに物質に溶け込んでいるのはそうです。彼の総体は5つの要素で構成され、彼の微妙な体は心、知性、偽の自我、汚染された意識で構成され、彼は5つのアクティブな感覚と5つの知識獲得感覚を持っています。このようにして、彼は物質的に融合します。しかし、物質の24の要素に融合されていても、彼は主の永遠の召使としての彼の個性を保つことができます。精神的な性質でも物質的な性質でも、そのような召使は解放された魂と見なされます。それが権威筋の説明であり、この節で確認されています。
27章「物質自然の理解」
サッチャデーヴァプラブの解説(2008.10.27)
ここでは主カピラが母であるデーヴァフーティに話している。ディヴォーティの質について、解放された魂も物質の肉体としての五要素に現れる。物質的な知性や心を持っている。もし、偽の自己感を通じて自分を肉体だと錯覚している人はまだ目覚めていない。
ルーパゴースワミーは言っている。肉体の中にあっても、ディヴォーティーは目覚めている。クリシュナとの関係に気づいている人は、物質界にあり、物質的な五感を持ち感覚はこれらの対象と触れ合っているのだが解放されている。間違った考えの原因は、私は物質的存在である。私はこの体だ。これは私の車だ。私の家だ・・。この世界にあるものは全て私のものだというような考え方。
プラブパーダはリーナというサンスクリット語が重要と言っている。リーナとは溶け込むという意味。
マーヤヴァーディはその意味を間違った解釈をしている。それはブラフマンに溶け込むことだと解釈している。そうではなくて、クリシュナとの関係に目覚めて自分かクリシュナの一部であるという解釈。永遠にクリシュナの一部であると同時に偽のエゴから解放されている。
ジーヴァ・ゴースワミはそれを、緑の森の中に緑の鳥が入っていくようなものだと解説している。プラブパーダは、魂は物質・・精神・・エネルギーに溶け込んだとしても、個別性は失われないと言った。だから我々は永遠のクリシュナの仕え人であるというのを決して忘れることはない。
主チャイタンニャは、サナータナ・ゴースワミの「私は何者ですか?」という問に対して、ジーヴァである我々の立場を明確に説明している。「魂のアイデンティティーは(真の立場)は、クリシュナの絵年なる召使である」と言った。(ジーヴァスヴァルーパ アチンチャヴェーダアヴェーダタットヴァ)
また、ルーパゴースワミは解放された魂をのことをどうやって知ることができるか、それは心、言葉、体を使って市場種に仕えている人であると言っている。
クリシュナはまたバガヴァッドギーターの15章7節で「ジーヴァは永遠のクリシュナの一部である」と言っている。一部は永遠に一部であり溶け込んでしまうのではない。
カピラは、トゥーリャと呼ばれる四次元について語っている。それは、常に偽のエゴの影響を受けない。
四次元の意識であれば、目を開けても閉じても何をしていても、偽のエゴの影響を受けない。常に超然としている。意識の4つのステージは以下の通りである。
①一次元 深い眠り
②二次元 夢
③三次元 目覚めている
④四次元 偽のエゴから解放
ディボーティも眠っている人もあまり変わらない。しかし、マインドと心を使ってクリシュナに仕えれば
プージャ・バイクンタでと同じことをやっていることになる。
ルーパゴースワミは私は日本人であるetc.というような、間違った自己感のことをウパーディと説明している。しかし、クリシュナに仕える人はウパーディから自由になる。献身奉仕は完全な解脱への道である。
物質的な段階から自由な人でも、クリシュナ意識に目覚めていなければ、また簡単に堕ちてしまう。
Nitya Krishna Das ニッチャ クリシュナ ダース 永遠のクリシュナの仕え人
例えば、ブラフマンに溶け込んで召使になるというのではなく、もともと永遠に召使なのである。
SB3-27-17
devahūtir uvāca puruṣaṁ prakṛtir brahman na vimuñcati karhicit anyonyāpāśrayatvāc ca nityatvād anayoḥ prabho
翻訳
デーヴァフーティは尋ねた:私の愛するブラフマナよ、物質的な性質は魂に解放を与えますか?
一方は永遠にもう一方に強く引き付けられるので、それらの分離はどのようにして可能ですか?
解説
カピラデーヴァの母であるデーヴァフーティは、ここで彼女の最初の質問をした。精神の魂と物質が異なることを理解しても、それらの実際の分離は、哲学的思索または正しい理解のいずれによっても不可能です。魂は至高主の限界効力であり、肉体は主の外部効力です。 2つの永遠の効力はどういうわけか結合されており、一方を他方から分離することは非常に難しいので、個々の魂がどのようにして解放されることが可能になるのでしょうか?実際の経験から、魂が体から離れている場合、体には実在が存在せず、体が魂から離れている場合、魂の存在を認識できないことがわかります。魂と肉体が結びついていれば、生命があることは理解できます。しかし、これらが離れているとき、肉体や魂の存在は明らかにされていません。カピラデーバの母のデーヴァフーティによって尋ねられたこの質問は、多かれ少なかれ虚無主義の哲学によって駆り立てられています。虚無主義者は、意識は物質の組み合わせの産物であり、意識がなくなるとすぐに物質的な組み合わせが溶けてしまうため、最終的には虚無以外には何もないと言う。この意識の欠如は、マーヤーヴェーダ哲学ではニルヴァーナと呼ばれています。
サッチャデーヴァプラブの解説(2008.10.30)
デーヴァフーティは自分の息子のことを、プラブつまり感覚の支配者と呼んでいる。魂は物質自然から自由になることができるのでしょうか?と問うている。
ここには二つの質問がある。
①魂は自由になれるか?
②この世の魅力は非常に強力なので、どのようにそれから引き離すことができるのか?
プラブパーダは、魂と物質の違いについて以下のように説明している。
エネルギーには三種類あって、それは内的エネルギー、中間エネルギー、外的エネルギーである。
内的が精神エネルギーで、外的が物質エネルギー。その両方があるのが中間エネルギーで、私たち生命体はここに属す。それは、例えれば、海と陸の違いで、私たちは海と陸の間の境目のエネルギーである。
ここで、分子論は1930年代に始まり1950年代に全世界に拡がったが、今ではナンセンスな理論である。
科学は意識を説明できない。心ですらだ。意識は肉体から(物質)できているのではなく、肉体こそが意識からできている。
バガヴァッドギーター7章4節で物質エネルギーには八つあると説明している。
それは、土、水、火、空気、空間、心、知性、偽のエゴ。これらは全て同じエネルギーで基本原子は光のエネルギーの振動である。
シュリーマド・ヴァーガヴァタムでも瞑想すればそれを聞くことができるとある。主が自分の元である。それが音として存在している。オームである。最も小さい存在は光で、それらが原子を作る。それを組み合わせればいろんなものができる。
土 → 水 → 火 → 空気 → 空間 → 心 → 知性 → 偽のエゴ
光のエネルギーが ゆっくり揺れる → だんだん早くなる
バガヴァッドギーターの7章5節でも、中間エネルギーのことが説明されている。
SB3-27-18
yathā gandhasya bhūmeś ca na bhāvo vyatirekataḥ apāṁ rasasya ca yathā tathā buddheḥ parasya ca
翻訳
土とその香り、水とその味、が別々に存在することはないので、
知性と意識が別々に存在することはできません。
解説
ここでは、すべての素材に香りがあるという例を示しています。 花、大地、すべてに香りがあります。 香りがない物質は識別できません。
水に味がない場合、水は意味がありません。 火に熱がない場合、火は意味がありません。 同様に、知性が欠如している場合、精神は意味を持ちません。
サッチャデーヴァプラブの解説
バガヴァッドギーターの10章26節で、クリシュナは精神的なものを理解しているという意味で、完全なるものの中で私はカピラと言っている。
私は20才から30才くらいまで、離れていると感じていた、だから他人も自分と同じであるという意識もなかった。
SB3-27-19
akartuḥ karma-bandho ’yaṁ puruṣasya yad-āśrayaḥ guṇeṣu satsu prakṛteḥ kaivalyaṁ teṣv ataḥ katham
翻訳
したがって、彼がすべての活動を受け取り、行動するものであるとしても、物質的な性質が彼に作用して彼を拘束する限り、どうして魂に自由があるのでしょうか?
解説
生命体は物質の汚染からの解放を望んでいるが、彼は解放されていない。実際、生命体が物質自然の様式の影響下に置かれるとすぐに、彼の行動は物質自然の性質に影響され、彼は受動的になります。それはバガヴァッドギーターで、プラクリティ・クリヤーマナニ・グラヒと言われています。:生命体は物質自然の性質や様式に従って行動します。彼は自分が行動していると誤解しているが、残念ながら彼は行動されられている。言い換えれば、彼はすでに自分を条件付けているので、物質自然の制御から抜け出す機会がありません。バガヴァッドギーターでは、物質自然の足枷から抜け出すのが非常に難しいとも述べられています。究極はすべてが無であり、神は存在せず、すべての背景が精神であるとしても、それは人間味のないものであるいうことを、さまざまな方法で試すことができます。この憶測は続くかもしれませんが、実際には物質自然の足枷から抜け出すのは非常に困難です。デーヴァフーティは、多くの方法で思索できるが、物質自然の呪縛の下にある限り、解放はどこにあるのかという疑問を投げかけます。答えはバガヴァッドギーター(7.14)にもあります。最高の主クリシュナ(māmeva ye prapadyante)の蓮華の御足に身を委ねた者だけがマーヤの呪縛から解放されます。
デーヴァフーティは、徐々に全てを明け渡す段階に来ているので、彼女の質問は非常に知的です。どうすれば解放できますか?物質自然の様式に強く束縛されている限り、どのようにして純粋な精神的存在の状態になることができますか?これは、いわゆる瞑想と呼ばれるところの誤った兆候でもあります。 彼らは「私は至高の精神の魂です。」と考える。私は物質自然の様式の活動を行っています。私の指示の下では、太陽が移動し、月が昇っています。」彼らはそのような熟考または瞑想によって自由になることができると考えていますが、そのような無意味な瞑想を終えてからわずか3分後に、彼らはすぐに物質自然の様式に捕らえられます。彼の高鳴る瞑想の直後、「瞑想者」は喉が渇き、煙草や飲み物を飲みたくなります。彼は物質自然の強い影響下にありますが、彼はすでにマーヤの呪縛から解放されていると思い込んでいます。デーヴァフーティのこの質問は、自分がすべてであり、最終的にはすべてが無であり、罪深い、または敬虔な活動はないと偽って主張する人のためのものです。これらはすべて無神論的な発想です。実際、バガヴァッドギーターで指示されているように、生命体が最高人格神に服従しない限り、解放やマーヤの支配からの自由はありません。
サッチャデーヴァプラブの解説(2008.11)
物質自然から自由になる方法は、難しい。たくさん神はいないという思索はできる。でも、答えはバガヴァッドギーターの7章14節にある。
どのようにして自由になるのか、つまり、どのようにして浄化されるのかということ。
ポイントは、精神指導者に服従すること。ここでのよい例として、デーヴァフーティは主カピラに聞いている。
なぜなら、束縛された魂は全て自ら、自分の力で解放されることはないから。
例えば、映画を見ている時、感覚と心を通して写真を観ている。それがまるで、自分であると錯覚して観ている。
しかし、自分が本当は小さいものである、自分には独立性はない、自分は自由ではない、と認めたら服従に近づける。
バガヴァッドギーター4章34節に、知識を得たいのなら精神指導者に仕えなさい。そして聞きなさい、とあります。まず、最初にグルに奉仕をして心を開き関係を築く。そこで信頼関係が生まれる。そして質問しなさい。グルはちゃんと答えてくださる。
ナロッタマダースの例があります。主チャイタンニャは、夢の中でロカナータゴースワミに保護を求め入門するようにナロッタマダースに、彼が生まれる前から言っていた。しかし、ロカナータゴースワミは、とても謙虚な方で弟子をとろうとはしなかった。最初、ロカナータゴースワミに断られた。そこで、ナロッタマダースは彼に隠れてスワミの排便した後のトイレを掃除した。この掃除が数年続いた。
そこで、再び、主チャイタンニャはロカナータゴースワミの夢に現れてナロッタマダースを入門させるように言った。そこでやっと、ロカナータゴースワミはナロッタマダースを入門させた。
これは、精神的なことだけではなく全てに関して言えることです。生徒に学びたいという意欲があれば、多くのことを精神指導者から引き出すことができる、これは自然なことです。非人格主義者は、自分が主人だと思っているので学ぶことができない。
私たちは、物質界の映画館で映画を観ている。だが、精神指導者の超越的な言葉で、「火事だ〜!」目覚めることができる。
ジグジャゴ、ジグジャゴ!目覚めよ!どれくらい寝ているんだ、マーヤの膝の上で。
ゴーランガの聖なる御名を唱えよ‼︎
私は主に服従している、と言うことは簡単である。だから我々は、実際目の前に存在している精神指導者を受け入れて、正式に入門しなければならない。
そして、そのためには、まず入門についての意味と必要性を理解しなければならない。
SB3-27-20
kvacit tattvāvamarśena nivṛttaṁ bhayam ulbaṇam anivṛtta-nimittatvāt punaḥ pratyavatiṣṭhate
翻訳
緊縛への大きな恐怖が、心の思索と基本原則への探求によって回避されたとしても、その原因は止まっていないので、再び現れるかもしれません。
解説
物質的な束縛は、物質自然の様式を支配したいという偽の自我のために、物質の支配下に置かれることによって引き起こされます。バガヴァッドギーター(7.27)は、icchā-dveṣa-samutthenaと述べています。生命体には2種類の性向が生じます。傾向の1つは欲望です。これは、物質自然の様式を支配する、または至上主と同じように偉大になりたいという願望を意味します。誰もがこの物質的な世界で最高の人格になることを望んでいます。 Dveṣaは「妬み」を意味します。クリシュナ、または最高人格主神に嫉妬するとき、人は考えます。私はクリシュナと同じくらい上手です。」これらの二つの項目、主であることの欲望と主への妬みは、物質的な束縛の最初の原因です。哲学者、慈善家、または虚無主義者が最高であること、すべてであること、または神の存在を否定したいという欲望を持っている限り、原因は残り、彼の解放の問題はありません。
デーヴァフーティは非常に知的に言っています。「理論的に分析して、知識によって彼は解放されたと言うかもしれませんが、実際には、原因が存在する限り、彼は解放されていません。」バガヴァッドギーターは、多くの誕生に対してこのような思索的な活動を行った後、実際に彼の本当の意識に至り、至高主であるクリシュナに服従すると、知識に関する研究の実現が実際に達成されることを確認します。理論的な自由と物質的な束縛からの実際の自由との間には違いがあります。シュリーマド・ヴァーガヴァタム(10.14.4)は、献身奉仕の道をあきらめ、単純に思索によって物事を知ろうとすると、彼の貴重な時間を無駄にするとします(kliśyantiye kevala-bodha-labdhaye)。そのような愛の労苦の結果は単に労苦です。他の結果はありません。憶測の労力は枯渇だけで終わります。この例は、空の水田の皮を剥いてもメリットがないことを示しています。ご飯はもうなくなっています。同様に、単に思索的なプロセスだけでは、原因がまだ存在するため、物質的な束縛から解放されることはできません。原因をなくする必要があり、それから結果はなくなります。これは、次の節で最高人格主神によって説明されます。
サッチャデーヴァプラブの解説(2008.11)
子供が転ぶことはあたり前だから、転ぶことを恐れてはいけない。いつか必ず歩けるようになる。
最重要事項は、ジャパを唱えること。唱えれば、自分に気づく時間がある。忙しくした後は心が落ち着かないのは自然なことである。
毎朝バガヴァッドギーターやシュリーマド・ヴァーガヴァタムを聴く。超越的な事柄を聴き日常を追い出すこと。身体、心、言葉を使う。
これを一生続けること。
そうすれば、
徐々に、穢れから自由になる。
終わり